2023年1月5日木曜日

法華堂跡(北条義時墓)<令和5年1月>

源頼朝墓の東側の山の中腹の平地にあるのが法華堂跡(北条義時墓)。と言っても所謂お墓があるわけではなく、義時の死後建立された義時の法華堂が建っていた場所、ということです。

法華堂跡(北条義時の墓)へ

源頼朝墓の階段下、大藏白旗神社(西御門)から小径を50mほど東へ行くと、ここ ↑↑↑ に。

法華堂跡(北条義時墓)1

法華堂跡(北条義時墓)2

源頼朝墓の記事でも触れましたが、ここと併せてこの一帯を「史跡法華堂跡(源頼朝の墓・北条義時の墓)」として国指定されています。

参考までに.....スマートフォンアプリ「AR北条義時法華堂」をダウンロードすれば、北条義時法華堂の復元CGを楽しめるとか....。


紅葉1

↑↑↑ 1ヶ月前...いや、半月前だったら、いい感じだったでしょうね〜。

法華堂跡(北条義時墓)からの景観

↑↑↑ 見晴らしもいい o(^▽^)o 結構昇ってますけど、一応これも「初日の出」です。

三浦氏が供養されているやぐら1

三浦氏が供養されているやぐら2
三浦氏が供養されているやぐら

↑↑↑ ここの一角にある三浦一族の供養塔が建つやぐらです。
1247年、宝治合戦で北条時頼(第5代執権・泰時の孫)に攻め込まれた三浦泰村(義村の次男)以下三浦一族276人は源頼朝法華堂で自害。その三浦一族が供養されています。

三浦氏は頼朝旗揚げ以来の御家人で、最盛期には北条氏に匹敵するほどの勢力を持っていました。この宝治合戦で三浦嫡流が滅んだことにより、合議制が終わり北条得宗家の専制体制が確立したと言っていいでしょうね。


3つの近世墓へ

↑↑↑ この階段を上ると、鎌倉初期に活躍した御家人の3つの近世墓があります。

3つの近世墓

↑↑↑ 奥から「毛利季光」「大江広元」「島津忠久」の墓です。階段下の写真をみていただければ分かるように、鳥居のある方の階段は「毛利季光」「大江広元」の墓、もう一方は「島津忠久」の墓へと続いています。上で柵を避けての移動は可能ですがオススメはしません。斜面はそれなりに急だし、ちょっと怖いです。


大江広元の墓
大江広元の墓

↑↑↑ 大江広元は鎌倉幕府政所初代別当で源頼朝の側近...その後も長く幕府を支えた最重要メンバーの一人です。

毛利季光の墓
毛利季光の墓

↑↑↑ 毛利季光は大江広元の四男で、毛利元就を輩出し、江戸時代には長州藩主となる毛利氏の始祖です。季光は宝治合戦で三浦方につき、頼朝の法華堂で自害しました。

大江広元の墓は、1823年に長州藩藩主・毛利斉煕により造営。毛利季光の墓も同年雪ノ下・鶯ケ谷の地に造営され、1921年にこの地に移されたそうです。


島津忠久の墓
島津忠久の墓

↑↑↑ 法華堂跡(源頼朝墓)でも触れましたが、島津忠久も鎌倉幕府の御家人で、薩摩島津氏の始祖と言われています。そして源頼朝の庶子(落胤)であったと島津氏に伝わっています。そうした縁から、第8代薩摩藩主・島津重豪が1779年、頼朝の墓に近いこの地に初代島津忠久の墓を造営しました。


3つの近世墓から

階段上から...高所恐怖症の私には少々キツい場所です。柵を乗り越える時はホントお気をつけて。

紅葉2

次に訪れるのは、桜か紅葉か... どちらも混むからな〜 (ーー;)

お次は「荏柄天神社」です。

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