鶴岡八幡宮から徒歩で5分ほど... 法華堂跡・源頼朝の墓へやって参りました。
↑↑↑ 突き当たりの階段を上ると 源頼朝の墓 です。
法華堂は、1189年に源頼朝が奥州征伐の祈願所として、伊豆山権現の專光房良遷に命じて建立した、聖観音像を御本尊とする持仏堂で、頼朝は死後ここに葬られ「法華堂」と呼ばれるようになりました。その御本尊・聖観音像は、あの!挙兵時に髷の中に納めていたものだとか...。
源頼朝公顕彰碑 |
「君出でて 民もしづまり 九重の塵も おさまる世とはなりけり」
歌碑は我が国中世史の権威であり、源頼朝研究の第一人者でもあった、大森金五郎氏によるものである。
戦乱の中世を鎮定して民百姓の生命財産を保証すると共に、時の朝政を恣しいままにしていた公家衆の特権を剥奪して我が国最初の武家政権を鎌倉の地に創設した不世出の英雄、源頼朝公を讃えたものである。
平成12年(2000年)7月12日 源頼朝会
↑↑↑ 結構急でキツい階段です。頼朝が亡くなった年齢と同じ53段あるそうな...。途中の柵に「笹竜胆」が ↓↓↓
史跡法華堂跡 |
正式名称「史跡法華堂跡(源頼朝墓・北条義時墓)」はここ頼朝の墓を中心に、東側にある北条義時の墓と思われる場所を含む一帯を指し、国の史跡に指定されています。
源頼朝墓 |
↑↑↑ この場所が法華堂(頼朝の持仏堂)のあった場所と推定されています。
↑↑↑ の写真の右端に説明板があり、平治の乱以降一度も再会することがなかった、頼朝と同父母の兄弟「源希義」との兄弟の悲哀を想い、互いの墓所の土と石を交換することで兄弟を再会させた...という心温まるというか、ちょっと切ないエピソードが紹介されています。
この石塔は1779年に第8代薩摩藩主島津重豪が整備したものとの碑文が残っています。なぜここで島津が出てくるかというと、島津氏の祖である島津忠久は鎌倉幕府の御家人で、頼朝の庶子(落胤)であったと島津家に伝わっているから...。
調べてみたら前回こちらへお参りしたのは2008年の夏でした。何かが違う...なんか綺麗になった気がする...と思って当時の写真を探してみたら... ↓↓↓
2008年8月の源頼朝墓 |
おそらく一番違うのが木製の扉 ↑↑↑ 修復ではなく交換っぽいですね。微妙に違います。
そして頼朝の墓から真っ直ぐ降りてきたところにこの ↓↓↓「大藏幕府跡碑」があります。
大藏幕府跡碑 |
鎌倉入りした源頼朝は、ここ大藏(大倉/大蔵)に御所を構え政治を執ったので、後に「大藏幕府」と呼ばれるようになりました。1225年に北条政子が亡くなり幕府が宇都宮辻子に移るまでの45年間、ここが鎌倉幕府の中心でした。
源頼朝は、この御所を見下ろせる場所に自身の持仏堂を建立したんですね...。